ロスコの闇





 色とりどりの闇の構図  ロスコの絵画にはそんな印象がある。
 闇とは何か?  という問いはあるにせよ、つきつめていえば、ロスコは「闇」を描いているのだと思う。

 千葉県佐倉市にある川村記念美術館には、画家マーク・ロスコの絵画を数点集め「ロスコルーム」と名づけられた展示室がある。私がここをはじめて訪れたのは晩秋の頃だった。
 肌寒いどんよりと曇った日であったように記憶している。JR佐倉駅から送迎のバスが出ており、駅前のバス発着所には、私を含め数人がそれぞれ黙りこくって美術館行きのバスを待っていた。私は、そのバスを待つ間、駅舎のスレート屋根の上で何羽もの鳩が集まってオブジェのようにじっとしているのをぼんやりながめたりしていた。

 マーク・ロスコについて、私はほとんど何の知識ももっていなかった。わかっていたのは、アメリカで活動したロシア出身の画家で、画面を塗りつぶしていくようなあの独特のスタイル、そして自殺したということだけだった。何年も気になっていたのに名前すら調べようとしなかったのだ。
 人に指摘されて気づいたことだが、私には、あえて好きな芸術家について情報を積極的に得ようとしない傾向がある。それはどういうことなのか?  つまりは、問いを問いのままにしておくことが好きなのだろう。問いに問いを重ねることが好きなのだ。確定した情報が多すぎれば、私自身が消化不良を起こしてしまう。それを怖れる。知るべき時がくれば、自然にそれはやってくるのだ、と思いこんでいる。知るべき時とは、それが私自身にとって少なからぬ意味をもつ時ということだ。
 私には、多分に何事か自分に引き寄せ、こじつけて考えるクセがあり、時としてとんでもない勘違いをしている場合もある。あくまで主観的な関係性のなかで、作品に接したいと考えている。

 数十分も走っただろうか……私たちを乗せたバスは、鈍色の日差しの方向に向かってひた走り、やがて川村記念美術館へと到着した。広々とした水辺と林のある美術館で、薄日を曇らせていた灰色の空もロスコとの対面には、ふさわしいように思えた。
 「ロスコルーム」には、大きな作品が壁面いっぱいに7点ほど並べられてあった。対峙するに充分な広さと大きさ……展示室の場としての雰囲気は悪くなかった。私がロスコを評するとき冗談交じりに、「けっして、インテリアとしてトイレにかけるわけにはいかない絵だ」などということがあった。私は図録を買うのもやめた。印象が壊れるような気がしたからだ。
 後に何かで読んだのだが、ロスコは、「あなたの絵は色が重要なのでしょうね?」という質問に、「MEASURE(寸法)が重要なのです」と答えたという。



 帰りのバスに揺られながら、ぼんやりと考えていた。彼は、やはり自ら、そのスタイルにおいても、そぎ落としていくタイプの画家だったのだろう。
 マーク・ロスコ  彼は「抽象」をつきぬけてしまった。誤解を恐れずにいえば、その絵は、もはや「表現」などではない。宙をまさぐる盲目者の手  それは全世界と自らの宿命をも向こうにまわした祈りであり、呪詛である。それこそが真の芸術だといってもかまわないし、まったく別のものだといってもかまわない……。

 ロスコの闇、それは無としての闇ではなく、あらゆる色と形を内包する闇、豊穣な闇だ。そこに浮かび上がった微かな痕跡は、あらゆる限定的な意味をも超越しながら、時として見る者のイメージや思念と呼応することもあるだろう。
 私たちがまぶたを閉じた瞬間に視るあの闇のなかの微かな光の痕跡のように、ロスコもまた私たちのなかに矩形の闇の痕跡として深く存在しつづける。



  以下、ロスコ自身の言葉(資料原文、拙訳)   

You might as well get one thing straight. . . I am not an abstractionist. I am not interested in relationships of color or form or anything else. . . I'm interested only in expressing basic human emotions - tragedy, ecstasy, doom, and so on.(MARK ROTHKO, 1957)


作品をストレートに受けとめてもらったほうがいい……私は抽象主義者ではない。私は色や形や、そうした諸々の関係性には、まったく興味がない……私はただ、悲劇・恍惚・絶望などの  根元的な人間の感情の表出にしか興味がないのです。(マーク・ロスコ、1957年)






(2001. 4)





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