サイクロープスの眼で読む





 サイクロープスはギリシア神話に登場する一つ目の巨人、ちなみに彼は腕のいい鍛冶職人で、神々の戦いに際してゼウスらに強力な武器を提供する。

 まず、祈るように両掌の指を組み、左右それぞれの手の人差し指を立てる。2本の指の間隔は、こぶし一つ入るくらい、ふつう指は2本に見える。そのまま遠くを見る、すると2本の指の内側に、もう1本ずつ指が見えてくる。実際2本しかないはずの指が4本に見えたり3本に見えたりする。
 錯覚としてこの非現実的な指が見えるのは、我々に「両眼単一視」と呼ばれる機能が備わっているからである。これは二つの眼が、その中点(サイクロープスの眼の位置)にある一つの眼のように働くことの意味である。人が空間を見て、その奥行きを容易に認識できるのは左右の眼を持っているからだという。左右の眼の受像の位相のズレ(複眼視差)が、その役目を果たしている。

 詩についても同じことが言えないだろうか。通常、人は言葉を読む際、散文的に読むことに慣れすぎているため、詩を読むときにもこれと同じ方法で散文的に読もうとする。そして詩の本質らしきものが一向に見えてこないことに苛立つ。ほとんどの詩、特に商業的に書かれたものは、そうした読者の態度を見透かしている。内容的には一見善意に満ちているし、それらを真っ向から否定する気はないけれども、詩を読み書きする者の態度としては些か拙速に過ぎると言わざるを得ない。

 先に示したように遠くを見つめる目線で複眼的に詩を読むことによって、全く違ったもの(世界)が見えてくる。これこそが詩の醍醐味である。遠くを見る目線とは、まさに言葉に散文的な筋立てばかりを追わないということだ。では、具体的にどうすればよいのか?

 サイクロープスの眼で幻影の指を見ているとき、突然左右どちらか片目を瞑ってみる、すると指は直ちに何の変哲もない2本の指にもどる。しかもそれはとても鮮明に見えるはずである。視点をどこにおいても件の指の幻影は見えてこない。
 つまり、鮮明なフォルムが見えるときには大抵、肝心なものは見えていないということだ。詩を読み書きする場合には、このことを忘れてはならない。言葉そのものを見ないこと。つねに遠くを見ていることである。

 左右の眼ということでいえば、そのズレ(複眼視差)による錯覚の意味とは、一篇の詩を奥行きのあるものとして多角的に捉えようとする態度である。言葉のあるいは発語の技法としての詩と、書き手との関係性を見極めることが重要となってくる。
 技法と言っても、それは書き手が必ずしも意識的に用いるものであるとは限らない。奥行きを意図した複眼的(あるいは直覚的)な詩を好まない読者もあるだろう。また、そうした違いこそが詩人の個性であり、そのような詩であるか否かということは、書き手と読み手双方の確信によってしか証明され得ぬものである。





(2006.6)